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​鈴木頂行とは

小谷三志の高弟であり、その門下生の信頼を受けていた鈴木頂行は下総国豊田郡水海道(茨城県常総市)の商家の生まれで名を忠八という。三志の死後も不二道講中に最大の影響を与えたとされる。

文化6年(1809)3月三志は真の不二信心を広める事を志した。最初は鳩ヶ谷方面から布教を始め、次第にその影響は武蔵野東部から下総北部へと伸びていったとされる。文化11年の不二御恩礼では三ツ海道釜屋忠八36 みせ 28 の一文が記されており、この頃最も栄えたと思われる。

水海道には頂行と共に勝れた弟子がもう2人おり、鍵屋勘兵衛と若林金吾がいた。この3人を軸とし水海道は不二道の拠点となり三志の教えも広がっていった。参行禄王(三志の師匠)から不二信仰教典を受け継いだ三志であるが、食行の教えを確実に解釈出来ず、また参行の文書も完全に理解し得ていなかったとされ弟子に教わるという形になっていたとされる。この事は三志自身

も自覚しており、食行と参行の教えを解釈するのに水海道の三人の弟子から学ぶという姿勢を表明していた。

文化14年頂行筆記の「誠道訓」ではそれが強く表れているとみられる。

富士講身禄派八世大導師となった三志が心理追求の姿勢をなりふりかまわぬ形で進めていったのがうかがわれる。反面、三志より信頼された頂行の師に対する態度は謙虚であった。頂行は三志の語るところを「聞書」に書きまとめたが、もしこの聞書が続編を残したとすれば現代に尊徳同様の書となったと思われる。

三志と頂行がいかに行動を共にしていたか高田与世著の相馬日記、川上開道記の宮中お鶏合わせ参観、伊勢川上紀行、文政5年下総佐原済度等でもよくわかるとされている。

最初は下級の公家と接していた程度だが文化15年、川上開道を契機に上洛が度重なるようになったとされる。次第に天子に近い人々と接する事となり、五摂家の一家鷹司家に招かれ姫君の皇子出生の祈願をする事となる。また同家より皇室の権威を守る為いかに努めてきたかの記録を受ける事となる。

その後三志と頂行の師弟は仙洞御所に入り、光格上皇に拝謁を許させる事となり、上皇より御衣を拝領する。

勧善録は完成以前から三志門下生だけでなく諸方から期待されていて、頂行による執筆なかばには写本が広まっていたとされる。また完成なかばで京都の公卿葉室右中弁顕孝、鷹司家抱え儒教者平安益斉の二人から序文が寄せられた。写本されたものと比較すると充実度と紙数などに違いが生じて事からも頂行の勧善録構想が成り執筆が始まった頃より写本人気が高まっていた事

が推測される。

写本とされるもので現存、保管されている物としては

鳩ヶ谷市郷土資料館蔵「孝心講永代修身録」、

二宮四郎家蔵(二宮尊徳所持本)「万代家宝記」、

栃木県今市市報徳二宮神社蔵「豊家勧善録」

などあるが、表題が異なるという事は頂行が執筆途中、表題もついてない頃から写本が広まったと考えられる。

文政八年七月八日頂行の死によって三志門下生の間で広まったとされる写本が残るのみとなり、同時に不二信仰の書を体系的に表す者も、頂行を超える者も現われなかったとされる。

頂行は再度上洛し刊行事業を続ける思いを抱いていたが途中遠州見附の宿で生涯を終えた。

辞世の句として

 身は見附 気は割石に立ち帰り こころの中は花の都へ

と無念の句を詠んだが、京の都へ辿りつけなかったものの今いる見附は京から東に向かうと初めて富士が見える地とされる所から教えは生き続ける。

このように読み取れると感じる。

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